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「震災ボランティアに参加しました」

気仙沼の桜

May 4, 2011
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東北大震災の被災者の皆様に、心からお見舞い申し上げます。劇団Tomorrow第6回公演で、大阪から観劇いただきパンフレットにも広告をいただきましたお客様からこの度カンパをいただき、宮城県気仙沼市で震災ボランティアに参加させていただきました。


4月末から開通した東北新幹線。4月26日午前11時のチケット開始を待って切符を購入。東海道新幹線、東北新幹線と乗り継いで岩手県一ノ関駅まで。


一ノ関駅からJR大船渡線で気仙沼へ向かう、一時間半の旅。車窓は地震が
あったとは思えないのどかな風景が広がっていました。


所々に咲きほこる桜。北国の春は訪れていました。


午前8:50分。10分遅れで終点の気仙沼駅到着。


気仙沼ボランティアセンター受付には、数十人の列ができていました。県外からの
ボランティア受付はGW中は一時中止というhpの掲載を見て、
最初は参加できるか不安でした。


朝9時で受付終了。何とか間に合いました。名前と住所、ボランティア保険加入の
有無を記入します。外国人の方の顔も見えました。


なんとか受付を通過しました。広場には全国から集まった200から300名の
ボランティアの方々。仙台、宇都宮、東京、京都、神戸、九州、日本各地の方々と
一緒に仕事しました。

運営スタッフの方が仕事のマッチング。希望者が自主的に手をあげてグループを
作ります。仕事内容を説明するスタッフの方。


グループごとに車で移動します。地図を片手に
依頼主のおられる民家に向かいます。


初日の仕事はに庭の土砂のかきだし。海水につかったために残っているへどろを
スコップでかきだし、土のう袋に入れて運び出します。


二日目の仕事は家の外壁の掃除。天井付近まで海水に浸かったため、
ひさしにまで付着した泥を高圧洗浄機でふき取ります。


三日目の仕事は縁の下のへどろのかきだし。このまま床を張ってもへどろのにおいが
でて暮らせないので、そのかき出し。格子があるのでスコップがはいらず、
まさに手でへどろをすくって土のう袋にいれて運びました。腰にくる作業でした。


縁の下の土砂の中から泥まみれの携帯ラジオがでてきました。
家屋を襲った津波がありとあらゆるものを押し流していました。


土砂を撤去するのは結構重労働で、すぐに額から汗が噴出してきました。
一時間に一度は休憩をとりながら、無理せずに続けていきます。


少し街中を歩くとあちこちに津波の爪あとが残っていました。


路上にころがる船。むこうに見えるのは、震災直後に手書きで新聞を発行した
河北新報社のビル。本当に港の近くでした。


気仙沼市内のコンビニエンスストア。品物は水も食料も日用品も十分に
そろっていました。ここで翌日のお昼ごはんのお弁当を買っていました。
店員さんの元気なかけ声に、逆に勇気づけられました。


4日目の仕事。全国から届いた衣料品の仕分け作業、
届いたままではどこにも配れないので、
赤ちゃん用、子ども用、女性用、男性用、上着、下着、上下、
夏物、外套等で分類しました。


この日一緒に働いたボランティアスタッフ。遠くは九州、北海道、ドイツから、
まさに海を越えて、国境を越えて気仙沼に集まった皆さんでした。


五日目の仕事。船、車、タイヤ、瓦礫が散乱している田んぼの清掃。
ふさがった水路を鍬で掘り出して水を通す仕事でした。
熊本の大学浪人生も参加していました。


およそ100メートルはあったふさがった水田用の水路が、最後は開通。
水が通ったときは本当にうれしくて、依頼主の方と喜び合いました。


海岸から離れたところには、普通どおり営業しているお店もありました。


港町気仙沼のお店の”お通し”。 こんなに豪華でした。


となりに座っておられた地元の元猟師さん。とても気さくな方で気仙沼の
暮らしについて語りあいました。震災で職場を失って
困っていると話しておられました。


旅館やホテル、宿泊場所はすべて予約一杯でしたが、たまたま
通りがかった旅館にキャンセルがでて二晩泊まることができました。
あたたかい布団で寝られることが本当に幸せでした。


地盤沈下の影響で、大潮のとき、満潮時は水に浸かった港近くの市街地。


港周辺には、信じられない光景が広がっていました。


船も車も家も、日常生活のありとあらゆるものが散乱していました。
写真左下には人影が‥ 船の大きさがわかります。


津波が押し寄せた港ですが、女川等へむかう船が動いていました。
とても希望の沸く光景でした。


港の岸辺に立っていた「港町ブルース」の歌詞のモニュメント。2コーラス目には震災にあった東北の港町の名前が‥。気仙沼の字だけは大きく書かれていました。ボランティア先の依頼主の方と一緒にこの歌を歌ったことが忘れられません。

 
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第6回公演終了から一週間後におきた大震災に、日々忸怩たる思いでいましたが、
今回お客様から一万円のカンパのご支援もあって、
おかげさまで現地で汗を流すことができました。
全国から参加されたボランティアの方々、被災された現地の人々、
さまざまな出会いから、逆にこちらが勇気と元気をいただいたほどでした。
まだまだ現地は人手不足と聞きます。
機会があればまた足を運びたいと思います。そして
一日も早い復興を心から願うものです。

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気仙沼ボランティアレポート 2011年4月30日〜5月4日

◆出発準備
気仙沼ボランティアセンターに直接電話し、当日午前9時までに到着すれば参加できることを知り、
旅行会社で朝8時半ごろまでに到着する電車ルートを調べ、さらにヘルメット、安全靴、レインウエ
ア上下、ゴム手袋、粉塵マスク等を調達、ボランティア保険に加入し、ちょうど準備を整えたのが
4/27。ところが、
その日の気仙沼のhpで「GW中の県外ボランティア受付中止」という案内が掲載されました。
本当に迷いましたが、断られればあきらめるつもりで現地に向かいました。
そうした心配はよそに4/30朝はすんなり受付を通りました。GW中の帰省客と重なった交通渋滞
を懸念しての受付中止だったと聞きました。
以後5日間、額に汗して働くことができました。
 
◆仕事内容 
主な仕事は民家の土砂の撤去でした。
津波で縁の下までへどろがたまっているのでそのままだとにおいが立ち込めてすんでいられない
ので、スコップや手でかき出し土のうに入れて運び出します。結構重労働で、すぐに汗が吹き出ま
した。日本の一大事に現地で世のため人のために直接働ける充実感、
目の前で被災された方に感謝される喜びから、すがすがしい汗をかくことができました。
日ごろ経験できない、とても人間的な労働でした。
 
◆心の交流
志同じくして北海道から九州まで全国から集まったボランティアの方とは、すぐに打ち解けあうこと
ができ、仲間がたくさんできました。
二日目に老夫婦の家庭を掃除したあと、おとうさんに「きれいになりましたね。また住めますね。
人生これからですね!」
と話すと、涙ぐんでおられました。
五日目の田んぼの100メートルを越える水路を開通させる仕事は、一番の重労働でしたが、最後
に開通して水が流れたときは
依頼者の方と心底喜びあいました。
一方、気仙沼港の岸辺は今も津波の爪あとが残る信じられない光景が広がっていました。
その中に森進一さんの「港町ブルース」の歌詞がかかれたモニュメントがあり、2コーラス目には
「港、宮古、釜石、気仙沼」と、今回の被災地となった港の名前が
あり、とくに気仙沼の字だけは大きく
書かれていました。
被災者の方と談笑しながら、この歌を一緒に歌ったのが今も忘れられません。
元気なボランティアスタッフ、被災者の方との心の交流を通じて
逆にこちらが元気と勇気をいただいたほどでした。
 
◆震災と文化芸術 
いまやどこの企業の広告やサイトも「被災者の方に御見舞申し上げます」という言葉が
時候の挨拶のようになっています。
震災後、ある知人のボクシング選手から電話がはいり、「後輩の試合が延期となり本当に
かわいそうです」と話しておられました。
多くの演劇仲間の舞台が続々延期、中止となったり、
「こんなときに舞台をやっている場合かと考えましたが、今自分ができるのは舞台だけ」等、
葛藤した気持ちを述べながら舞台を案内したり、
文化芸術にかかわる方すべてが、今回の
震災で自分の営みを
根本から見つめなおすことに迫られたと思います。
しかし、こんな状況こそ、被災地の人々に笑顔をもたらすのが、歌、音楽、笑いだったと思います。
被災地の人々の心に灯りをともすのが、一に明日への希望、二に文化芸術ではないかと思います。
 
多くの日本人が、日本の一大事ともいうべき東北大震災に多かれ少なかれ心を痛め、
なにかしたいという思いにかられています。
私たちも劇団員である前に、日本人であり、人間です。
劇団Tomorrowは社会人のミュージカル劇団であり、自分たちの社会人として実生活、実体験に
即したテーマを
舞台で表現することを目指しています。その一環として、今回の震災で、
自分たちが感じたこと、見たこと、したこととして、
hpに掲載しました。
 
◆必要なのは 物 より 仕事
現地で夜、居酒屋にはいると、ボランティアスタッフは歓迎を受けましたが、
「うちは半壊だが、隣は全壊扱いで、配当金が違う」等々、
現地の人はどこでも配当金の話で持ちきり、お金のことで口論にすらなっていました。
働き口をなくして今はお金に困っている、という元猟師さんの話も聞きました。
無論地域ごとにまだまだライフラインが整っていないところもありますが、
気仙沼市内のコンビニは十分に物がそろっており、今は、生活物資というより、
雇用、働き口、当座の生活費、
というところにニーズが移ってきているように思いました。
今こそ、現地の情報、ニーズをつかんだ上での組織的継続的な支援が求められる
時期だと思います。
本当に一日も早い生活復興を心から願うものです。